しかし、資本主義の現段階になって、それは間違いであることが判明した。人間には他の高等な動物と同じように協働・共生の遺伝子(ミラー・ニューロン)がある。私的所有は決して絶対ではなく、歴史上、人類は多くの生産手段を共有してきた。私有が幅を利かせたのは人類の長い歴史の中で資本主義だけだ。所有権の概念は、もともと「共有物を利用する慣習的な権利」であった。

いまや私達は競争する市場から生産の場を共同広場(それをコモンズと呼ぶ)に移す。

市場が現実に存在する場所ではなく概念的なものであるように、ここで言うコモンズもそうである。そこには共同社会に相応しい法と秩序がつくられるばかりでなく、そこに生産・生活の場を求める人々の精神構造も資本主義のそれとは異なったように進化する。

コモンズは突然出現するのでなく、人類がずっと持っていたものが、資本主義の没落によって復活する。コモンズの再発見とリフキンは言っている(P.251)。

主体

それではコモンズの活動主体は誰か?

彼は協同主義者という言葉を使って、それが組織する様々な団体、人々の集まりに期待をよせる。資本主義でなければイノベーションは生じないのではという不安はあるが、リフキンはコモンズに相応しい社会的企業家が既に世界の国々に出現しているとして多くの実例を示している。

所有からアクセスへ

私的所有の意味することは自分だけの自由な使用、つまり他人の使用の排除だ。それに加えて、財産の誇示にも使われる。評者(濱田)の経験をひとつ紹介する。

東南アジアの田園地帯を一村一品運動の視察で巡回したときのこと、富裕な人々がピカピカに磨いたクルマ(多くは日本車)を家の門の前に陳列しているのを見た。聞けば乗らないのだそうだ。誇示するためだ。私的所有の行きつくところは無意味が待っている。

使用を自由にするには、最低限の秩序があれば可能だ。高給取りの外国人が多く住む東京の高級マンションにはたいてい共同使用のクルマが用意されている。これによって大きな節約が可能になり、物品の使用効率は格段に高まる。