全面侵攻当初であれば、第2の立場と第3の立場は、それほど違いはなかった。初動の防衛措置は、いずれにせよ必要だったからだ。だが、2年半もの時間が経てば、当然、事情は異なってくる。

パレスチナ問題を例にとって比較してみよう。世界中の諸国が、イスラエルの違法占領を認識しながら、現在は「停戦」を支持している。イスラエルの違法占領を駆逐するまでハマスは戦い続けるべきだ、と主張している国は、存在しない。しかしウクライナでは、日本を含めたウクライナ支援国は、異なる姿勢を取っている。

そのように考えてみて、あらためて「今日のウクライナは明日の東アジア」というメッセージは何を意味しているのか、わからなくなってくる。

現実の日本のウクライナ政策をそのままあてはめると、「侵略されても戦い続ける」というメッセージだろう。その際に仲間が少ないと負けてしまうので、米国や欧州諸国を味方に引き込むために、欧州での戦争でできるだけ恩を売っておきたい、ということだろう。だがそれで「戦争に勝てる」という絶対的な保証の約束をするのか。あるいは「仮に勝てなくても永久戦争に受け入れる覚悟をする」ということなのか。

もちろん期待する議論の方向性は、石破首相が述べているように、「できれば東アジアでは抑止の機能を高めて戦争が起こらないようにする」、ということだろう。

だがそうであれば、本来、発するべきメッセージは、「今日のウクライナが、明日の東アジアにならないようにする」というものであるはずだ。

そして「なぜウクライナでは抑止が働かなかったのか」という問いこそを、真剣に検討していかなければならない。つまり、単にウクライナ支援策をすごいことであるかのように宣伝するだけではなく、「今、日本が行っているウクライナ支援は、将来のさらなる惨禍の発生を予防する抑止効果があるか」という問いこそを設定して、検討しなければならない。

おそらく、自民党の国民向けメッセージと、実際にやりたい政策論の間には、大きなギャップがある。問題は、首相をはじめとする政治家層が、そのギャップを明らかにしないどころか、自分たちで気づいてすらいないように見えることだ。