長崎でも、田川務市長は、当初は爆心地付近で破壊されたカトリック教会の大聖堂「浦上天主堂」の遺構の保存に前向きであったと言われる。長崎市議会は、保存に向けた決議も行っていた。ところが突如とした田川市長の方針転換によって、1958年に解体されてしまう。
もちろん浦上天主堂は、長崎市の所有物ではなかった。「カトリック浦上教会」が、関心を持つ信徒が多数いたアメリカやカナダなどで募金活動を行って、再建した。
ただ、1955年にアメリカのセントポール市と姉妹都市提携をしたことを受けて訪米して以降、田川市長の態度が豹変し、浦上天主堂の解体撤去に前向きとなった経緯は、史実としてよく知られている。カトリック教会施設の被爆遺構としての保存を望まないアメリカ人たちの「圧力」を受けて、田川市長は態度を豹変させた、と広く信じられている。
長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。解体されて「幻の世界遺産」になった理由は?
「原爆の恐ろしさを伝える歴史的資源にするべき」と市議会では保存を求めていた。長崎原爆の日に振り返る。
この史実に従えば、鈴木長崎市長の祖父である田川市長は、アメリカに気を遣うあまり、重要な文化資源をみすみす放棄した人物であったことになる。「もっとアメリカに気を遣え」、と保守勢力から攻撃されている鈴木市長の今の立場と心中を考えると、非常に複雑な思いにかられる史実だ。
私は、広島大学に奉職していたため、広島にはそれなりに詳しい。他方、長崎も何度も訪問したことがある。双方の都市で、外国人を受け入れた研修の運営に従事した経験も持つ。
率直に言って、広島市の施設はわかりやすい。戦前の軍国主義国家・日本における「軍都」から、戦後の平和主義国家・日本における「平和都市」への転換も、ストレートすぎる歴史だ。原爆の歴史が観光化されすぎている、政治利用されている、という疑問を提起されることもある。