第3に、定性志向か定量志向の学術誌のどちらかを重視するという、アメリカの政治学部の大学院の分断化もみられます。
私が重要だと思ったのは、大学院教育がそれぞれ異なりすぎると、相互知識の空白が生まれてしまうために、大学間の交流が難しくなるので、たとえ指導教員が必ずしもあまり価値を見いださなくても、画期的な研究にふれることは、大学院生にとってためになる、というコルガン氏の指摘です。
我が国の「国際関係論(国際政治学)」には、「理論系」、「歴史系」、「地域系」、「思想系」などがあり、それらが学問の多様性を保っているとしばしば肯定的に評価されるようです。
確かに、これには一理あるのですが、このコインの裏側は、日本の国際政治学が体系化されていないということでしょう。それぞれのアプローチに立脚する研究者が、他のアプローチの研究者と対話しようとしても、そもそも共通の学問的基盤がなければ、それは不毛に終わりかねません。
私は、こうした問題の深刻さをウクライナ戦争に関する学者との意見交換で痛感しました。すなわち、誠に残念ながら、日本の「国際政治学者」とは、ほとんどマトモな意見交換ができなかった一方で、アメリカの政治学者とは、それが成立したのです。詳しくは、私がアゴラに寄稿した「ウクライナ戦争をめぐるコープランド教授との対話:自由な言論空間の重要性」をお読みください。

ウクライナ戦争をめぐるコープランド教授との対話:自由な言論空間の重要性
ロシアのウクライナ侵攻の原因や帰結をめぐっては、さまざまな分析や見解がさまざまな媒体に発表されています。戦争と平和を実証的に研究する論文を掲載する専門誌にも、ウクライナ戦争の原因を究明する手堅い論考が発表されるようになってきました。...
ここで私が強調したいことは、知的交流や相互批判というものは、対話の土台があるからこそ成立するのではないか、ということです。