この考え方は、2015年平和安全法制に先だって導入された1992年国連PKO協力法の成立の際に、基本的に踏襲された。国連安全保障理事会の決議に裏付けられて集団安全保障の一環として行われる国連PKOであるならば、武力行使の範囲にさえ気を付ければ、日本も参加していい、という憲法解釈であった。

石破氏は、「アジア版NATO」は、「集団安全保障」の仕組みなので、憲法問題に抵触しない、といった主張をしているらしい。その理由は、こうした日本の憲法学通説の伝統であろうと思われる。

残念ながらこの議論は、日本の「憲法学通説」の範囲でのみ成立する机上の空論である。国際的には、破綻している。

NATOの存在を国際法で裏付けているのは、国連憲章第51条の集団的自衛権である。実態として、地域的な集団安全保障としての要素がある、という分析は可能なのだが、それはNATOの存在が国際法上は集団的自衛権によって裏付けられているという事実を変更しない。

国際法上の集団安全保障は、国連憲章第7章の強制措置のことであり、国連安全保障理事会決議をへなければ、発動されたことにならない。アジアの幾つかの諸国が自発的に結ぶ条約の加盟国をいくら増やしても、それはどこまで行っても集団的自衛権でしかない。NATOも同じであるので、NATOは集団的自衛権を根拠にして成立している組織でしかない。

さらに付け加えて言うならば、このような混乱は、憲法学は国際法学ではない、といった当然のことによって生まれている混乱ではない。憲法学通説が、政治イデオロギーを振り回して偏向した奇妙な議論を積み重ねてきたことによって生じた混乱である。

そもそも日米安全保障条約ですら、その前文で、国連憲章第51条の集団的自衛権を根拠として条約が成立していることを明示している。集団的自衛権を忌み嫌って、日米同盟を何か違うものに作り替えてしまおうとするのは、現行の条約体系をひっくり返す巨大な地殻変動を起こす革命的な政策である。石破政権の日本国内での支持率がどれほど高まろうとも、相手のあることなので、端的に言って、実現不可能だろう。