以前に「「ウクライナ応援団」はどこへ行くか」という題名の記事を書いた。
「ウクライナ応援団」はどこへ行くか
9月6日にドイツのラムシュタイン米空軍基地で開かれた会議において、ウクライナへの追加支援が表明されたが、ウクライナ政府が米国などの主要支援国に強く求めてきたロシア領内深く入る攻撃を可能にする長距離砲の使用許可は、認められなかった。
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その趣旨は、政治活動と言論活動の境目が分からなくと、やがて悪影響が各所に及んでいくだろう、ということだった。
ウクライナを応援することが、政府関係者を始めとして日本社会の主流派の価値観になっている。その政治的性格のため、主流派の意図にそわない意見のみならず、情報までも拒絶する風潮が蔓延してしまった。少しでも意にそわない情報に接している人物を、そのことを理由にして「親露派」として人格批判の理由にしていく風潮も、多々見られる。
こうした政治活動と言論活動の境目が不明になる現象は、たとえば自国が戦争状態に陥ったときなど危機にある場合には、不可避的に発生してくるものかもしれない。その場合には、一般大衆の信奉と、知識人層の議論とを、きっちりと分け、少なくとも後者の階層の人々が緻密な議論を進めておく場を確保しておくことの必要性が問われてくる。
ウクライナについては、日本は戦争の当事者ではなく、しかも欧州の戦争であるため、必ずしも当事者意識が高いわけではない。
ところが日常的になじみのある欧州における大規模な戦争であることや、日本が軍事同盟関係を持つアメリカが他の同盟諸国とともに大々的な関与をしている事情のため、他のいずれの戦争の事例よりも、日本人の感情的な関与の度合いが高くなっている。そこで上述の「親露派狩り」マッカーシズムのような現象も、顕著になってくる。
この現象が倫理的にどのような問題を内包しているかも、大きな問題ではある。今回は、しかし、軽視されがちな情勢分析面での悪影響について、考えてみたい。