祖国を愛する私は、求められれば祖国を守るために戦います。が、自分の孫が将来、その人を抱きしめると知っていたら、敵として殺すかどうか戸惑うでしょう。
私は集まった人たちの顔を覚えようと写真を沢山撮りました。WSJ紙はそんな私を「感動する祖父の姿を日本製ビデオで撮りまくる米国少年」との見出しで報じました。皮肉を込めたのでしょう。が、記者は肝心なことを見落としています。私が記録したのは私自身の感動だった。最年少の私は他の誰より長くこのことを記憶に留められます。その日の感激を決して忘れまいと決心したのです。
その日硫黄島で知ったことを出来るだけ多くの人と共有することが、私の義務であると感じています。ですから大統領閣下、誰よりも先ず貴方からと思い、ペンを執った次第です。
上坂は「平和への手紙」が三省堂の高校英語教科書に収録されたとし、平川本には桐原書店の英語教科書とある。が、いずれにせよこの手紙を読んだ日本人が少なからずいる訳である。
和智恒蔵の手紙
ジャコビー少年がその感動を忘れまいと決心した85年2月19日の「名誉の再会」は、実は和智(旧姓・大野)恒蔵(1900-1990)の長年にわたる取り組みによって開催に漕ぎつけた。
和智は旧制横須賀中学(現・横須賀高校)から海軍兵学校に進み(50期)、22年に卒業した。海軍での特務機関勤務の後、41年12月7日にはメキシコで対米通信諜報班長として米機雷部隊指揮官ファーロング少将の「パールハーバー上に機体見ゆ、練習に非ず」との打電を傍受している。
硫黄島へは44年3月に中部太平洋方面艦隊管轄の硫黄島警備隊司令海軍中佐(直後に大佐)として赴任した。当時の兵力は和智麾下の海軍1362名、厚地兼彦大佐麾下の陸軍4883名だった。ところが同年7月7日、同艦隊が司令部を置くサイパンが陥落、南雲忠一中将は戦死する。
東京から2350kmの距離にあるサイパン島の陥落は、日本本土が航続距離6000kmを誇るB29による空襲に晒されることを意味する。丁度中間に位置する硫黄島の中継基地としての重要性も一段と増した。が、和智は44年10月15日、その硫黄島から去ることになる。