その後、東西二都論なども浮上したが、戊辰戦争の勃発により東国情勢が緊迫し、東日本をしっかりと押さえ、将来にわたり徳川家に江戸城を返す意思がないことを示す必要があった。このため、天皇の東幸が決定され、7月17日に「車駕東遷」が発表された。「江戸は東国第一の要地であるので、これを東京と改称し、自らそこへ赴き政務を見ることにする。これは、自分が国内を一家とし、東日本、西日本を平等に見ようとするからである」とされた。
9月20日、天皇は2300の兵に警護され、御所の建礼門より出発し、10月13日に江戸城に入城、東京城と改称した。しかし、戊辰戦争も官軍の勝利に終わっていたため、天皇は京都に帰ろうとしたが、三条実美が「天皇が京都へ帰ってしまえば関東の人心を失う。京都、大坂の人々が新政府を恨んだとしても、数千年にわたり皇室の恵みを受けてきた土地だから心配ないが、関東は古来より皇室の恵みを受けることが少ないから、京都へ帰ってしまえばたいへんなことになる」と主張した。
とはいえ、孝明天皇の三年祭や立后の儀式などの予定もあったため、12月にはいったん京都に戻ることとなった。京都では激しい議論が交わされたが、三条が再幸を中止すれば東国の騒乱が勃発すると強引に議論をまとめ、3月7日、天皇は再び京都を出発し、3月28日に東京入城、太政官もここに移された。

明治天皇の東京行幸(聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」)
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江戸城の本来の将軍の住まいだった本丸御殿は1863年に焼失しており、将軍・家茂は西の丸御殿で生活していた(慶喜は将軍として江戸城にいたことはない)ため、明治天皇もこの西の丸を住まいとすることとなった。
しかし、1873年にこの建物も焼失したため、赤坂離宮(旧紀伊藩邸)を臨時の皇居とし、1879年に西の丸に「明治宮殿」といわれる皇居が建設された。外観は紫宸殿風であったが、内部は洋式の構造であった。