金九は尹奉吉を庇って、「事件」の「責任者は金九」とする声明をフィッチ夫人に翻訳させて発表した。斯くて「事件」の首謀者が金九だと世界に知らされた。日本から懸賞金60万元を懸けられた金九を、蒋介石政権は飛行機で逃がしてやろうと申し出たが、金九はこれを固辞した。

20日余りが過ぎ、スパイが密かに家を取り巻いて見張っていることを知った金九らは、フィッチの運転する自家用車にフィッチ夫人と共に同乗、仏租界過ぎて中国領にある停車場まで行き、汽車で浙江省嘉興の紡績工場へと逃れた、というのが金九上海脱出の経緯である。

現場で捕らえられた尹奉吉は上海派遣軍の軍法会議で裁かれ、死刑判決を受けた。その後、「事件」で負傷した植田謙吉中将が師団長を務めていた陸軍第9師団の駐屯地である金沢市に移送・留置され、市内で銃殺刑に処された。

これが「記念館」が金沢に置かれる由縁だが、同市では抗議活動が激化し、軽自動車が民団地方本部の壁に突っ込む事件も発生した。民団は「分断と暴力、ヘイトが無い社会を強く望みそして目指していく」と述べた。開設は延期される見通しようだが、当然中止されるべきである。

そして我々日本人は、今回の「記念館」騒動と1968年の韓国英字紙の記事によって、1923年4月29日に起きた「上海天長節爆弾事件」に加担した米国人宣教師が、その14年後の「南京事件」の捏造にも大きく関わっていたことを改めて想起するのである。

【参考拙稿】

  • ヘボン博士と南京大虐殺捏造を繋げる上海の聖書印刷所(前編)
  • ヘボン博士と南京大虐殺捏造を繋げる上海の聖書印刷所(後編)
  • 金九自伝に見る大韓民国臨時政府と二つのテロ事件(前編)
  • 金九自伝に見る大韓民国臨時政府と二つのテロ事件(中編)
  • 金九自伝に見る大韓民国臨時政府と二つのテロ事件(後編)
  • 「ポツダム宣言」を流したプロパガンダ機関「OWI」の正体