3月10日の記事には、施設は韓国KBSの元関係者が主導し、在日韓国人が協力していることや4月29日に開設予定であること、NHK党の浜田聡議員が会見で反対する旨述べたとある。4月5日には民団(在日本大韓民国民団)が開設に反対する談話を出したと伝えた

事件の3日前に撮られた尹奉吉
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かつて筆者は、独立活動家を僭称するテロリストの元締め「金九」を調べていて、1937年12月の彼らがいうところの南京大虐殺(以下、「南京事件」)と「事件」とが関係していることにつき、本欄に書いたことがある。詳細はそちらをお読み願うとして、以下にその要点を記す。

日本軍入城後に設けられた南京安全区国際委員会の責任者の一人で宣教師のジョージ・A・フィッチは1883年、中国・朝鮮のシンパ宣教師を両親に蘇州で生まれた。彼は「南京事件」のデマを世界に広めた『戦争とは何か』をAP特派員ティンパーリと共著し、東京裁判にも陳述書を提供した。

米国留学から帰国した1910年前後からフィッチは、両親の影響を受けて日本に合邦された朝鮮の独立運動を支援するようになり、満州事変勃発後には中国支援にも加担した。金九ともこうした活動を通じて交流するようになったのである。

2016年6月27日付の韓国英字紙『コリア・ヘラルド』に「『韓国を愛した外国人』 韓国独立運動家の支援者、ジョージ・フィッチ家」なる記事がある。記事は、韓国政府が1968年にジョージ・A・フィッチに「独立功労勲章」を授与したという興味深いもので、次のように続く。

フィッチは蘇州生まれの米国人宣教師で、1919年には中国の上海で朝鮮人独立運動家たちに集会所を提供し、1920年代には朝鮮人救援会の理事や仁成学校の顧問を務め、1932年には虹口公園での尹奉吉の愛国的な行為の後、金九を避難させた人物である。

金九の自叙伝『白凡逸志』に拠れば、32年4月29日に起きた「事件」現場で尹奉吉が捕えられた後、金九はフィッチに匿ってくれるよう頼み、フィッチ宅二階の提供を受けた。フィッチ夫人は手ずから食事一切の世話を焼き、金九らはフィッチ宅の電話を使って様子を探った。