私は、広島を訪問する外国人のための研修の講師などを何度も務めたことがあるが、必ず聞くのは、「被爆者はアメリカを恨んでいないのか」「被爆者はなぜ復讐ではなく平和運動をするのか」といった問いである。21世紀の対テロ戦争の時代には、いっそう切迫性が増した問いであったと言ってよい。
被爆者の方々が、被爆直後から証言活動などの平和運動を行っていた、と考えるのは、間違いである。「広島平和記念都市」構想を推進して広島の復興の立役者となった戦後直後の初代公選広島市長の濱井信三氏の政策に、当初は多くの広島市民は冷淡だった。「平和よりも、まず食べ物、住居、そして仕事をくれ」というのが、切実な思いだったからだ。
たとえば、今では当たり前のような広島の観光資源になっている原爆ドームも、根強い反対論のために二十年にわたる時間をへて、ようやく保存が決まった。長崎では、浦上天主堂は、いち早く解体されていた。
岸田外交の成果と広島の遺産、そして長崎
岸田文雄首相が次の自民党総裁選に出馬しないことを決めた。2021年10月に発足した岸田政権は、約3年間で幕を閉じることになる。
調整型の人物であり、岸田政権中の法案成立率は高かった。他方で、思想的な基盤を持った岸田首相独自の政策という...
被爆者の方々が、現在われわれがよく知る平和運動の文化を確固たるものとしていくまでには、長い時間と、多くの人々の構想と努力と、そして一人一人の被爆者の方の葛藤とが、必要だった。
その苦闘が、ノーベル平和賞に値する水準まで到達したことについては、日本は、国家として、称揚をするべきだろう。そして国家のアイデンティティの象徴としての位置づけを、確立していくべきであろう。
2016年にオバマ米国大統領が広島を訪問した際、沿道に集まった広島市民は、歓喜していた。涙を流して手を振る高齢者の姿などが、目についた。外国人記者らは、「謝罪を要求するのかと思ったら、泣いて喜ぶというのは、いったいどういうことなのか」と質問した。