10月11日、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に、ノーベル平和賞が贈られることが発表された。素晴らしいことである。素直に歓迎をしたい。
メディアやSNSには、歓迎と祝福のコメントがあふれた。ただ中には政治的立場からの見解が述べられている場合もあり、幾分かのやり取りも発生しているようだ。
もともと核政策をめぐる政策的立場の違いが、左派と右派の確執として、立ち現れてきやすい分野である。長年にわたって被団協は、ノーベル平和賞候補だったが、むしろ受賞が遅れた背景に政治的・組織的複雑さの事情があるとも言われていた。
核廃絶論者は、日本政府の核廃絶に関する曖昧な立ち位置を批判する。今回のノーベル平和賞受賞に際しても、左派系の野党の方々や、リベラルと自認する言論人の方々の中に、このパターンの反応が多かったように思える。
これと真逆の政策的立ち位置に、核武装論者がいる。これらの右派・保守系の方々の中は、ノーベル平和財団は左翼組織だ、あるいはノーベル平和賞は必ずしも核廃絶推進だけを導き出すわけではない、といった類の言い方をしがちだ。受賞をあまり歓迎していない雰囲気である。
国内のイデオロギー対立の構図をこえた外交政策との関わりで見ると、さらに興味深い現象があった。「陰謀論」系の流れでは、ノーベル平和賞は「グローバリスト」あるいは「ユダヤ資本」に牛耳られており、核廃絶推進への関心は、ロシア・北朝鮮・イランといったアメリカに対抗する勢力をけん制しようとする意思表示であり、警戒すべき陰謀だ、という見解があった。
これに対して、今回のノーベル平和賞を見て、ロシアに対抗する意思をさらに強めるべきだ、といった軍事的観点を強調する方もいた。こちらの系統では、イスラエルやアメリカの議員層にガザにおける核兵器使用の妥当性を示唆した有力者がいることなどが参照されることはない。
被爆者は一人ではなく、過度の一般化はできない。被爆者の数だけ、異なる考えや感情があるとも言える。あるいは一人一人の心の中にも複雑な葛藤があるだろう、という意味では、被爆者の数以上の考えや感情がある、とも言えるくらいだ。