つまり、多様性の理念を悪用することで、本来の立場の弱さが逆に強さとなり、社会的に優位に立つケースも生まれかねない。周囲は正義の名のもとに堂々と一人を集団リンチする。自分にはそれがとても暴力的に感じられるのだ。
多様性で無縁社会が出来る
誰かに注意したり、会話するだけでも騒ぎにされ、リンチのターゲットにされるリスクがあるとなれば、待っているのは「無縁社会」というディストピアである。いや、すでにそのような恐るべき社会は実現していると言っていい。
2017年6月、中国では車にはねられた被害者を完全無視する歩行者が話題になったことがある。その際、「人権も人命もない国だ」と批判が集まった。
しかし、まったく同じように我が国でも助け合いの精神が萎縮している場面がある。困っている人に声をかけたくても、相手にどう受け取られるか分からず、ためらうような空気が社会に広がっている。実際、困っても見捨てられる声も見られるようになった。
筆者は見るからに困っている人を見つけたら、できるだけ助けたいと思うし、実際にそうしている。だが、万が一、親切心を脅威と変換して受け取る感覚の持ち主に出会ってしまったら?と想像するととても恐ろしく感じる。
かつては疑問にすらならなかった「困っている人を助ける」という当たり前の行為が、今では時に人生を左右しかねないリスクを伴う。これをディストピアと言わず、なんというのだろう。
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多様性の理念が誤って使われ、言動への過剰な反応や集団的な非難が起きる場合もある。少数の極端な声であっても、それが社会の空気として定着すれば「多様性がかえって生きづらさを生む」と感じる人も出てくるだろう。
だからこそ今こそ、多様性の本来の目的を見つめ直す必要があるのではないだろうか。
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