ジェイムズ・モンロー大統領の「モンロー氏の宣言」が出て、アメリカの「モンロー・ドクトリン」の外交政策が確立され始めていくのは、1823年だった。アレクシ・ド・トクヴィルが一世を風靡する『アメリカのデモクラシー』を公刊するためのアメリカ旅行を行ったのは1831年である。後にドイツ国民経済学の始祖として知られるようになるフリードリヒ・リストが、アメリカに滞在して「アメリカン・システム」を賛美する『アメリカ経済学綱要』を公刊したのは1825年であった。
前述のH・C・ケアリーによれば、「アメリカ体制」は、保護主義を標榜するにもかかわらず、世界各国民が「人間の自由と国民的独立」を達成するための体制のことである。それは「国内商業の拡大と社会的循環を刺激するような職業の多様化」を意味しており、「自由・平和・調和への唯一の道」なのだとケアリーは主張した。イギリスの「自由貿易」が「独占」を維持するための政策であるのに対して、「アメリカ体制」は「独占を打破り、完全な自由貿易を確立する」。(宮野、前掲書、292-3頁。)
19世紀のアメリカは、農業が主要産業だった。特に南部諸州は、奴隷輸入と欧州向け輸出に依存する大西洋貿易システムの中に組み込まれたものだったので、ニューヨーク出身のハミルトンらが主張した高率関税政策にも批判的だった。しかし北部諸州は製造業の育成を目指して高率関税を柱にした保護主義を強く主張していた。この対立は、結局、1860年代まで持ち越されて南北戦争によって決着をつける構造的なものであった。
南北戦争後の「再建」期から連続して政権を担当した共和党政権は、北部州の利益を代弁する立場を基本にした党だった。そこで飛躍的な発展を遂げたアメリカ国内の製造業をさらに発展させ、しかも帝国主義的な領土拡張まで果たそうとしたのが、マッキンレーに代表される19世紀末の共和党の有力者の立場だった。