そして、17年末に波多野宮内相から内意を受けた後、宮家出入りの医師の「女子は皆健全にしてその子孫に色盲の遺伝することなし」との判定を得た上で、「安んじて誠意を以て御請け申し上げた」と、これまでの経緯が認められてあった。
ここで問題は、久邇宮家出入りの医師の鑑定と元老依頼の三博士との意見の相違、即ち、健眼の良子女王から産まれる男子に色盲が出るか否かに尽きる。そこで原敬首相は中橋文相を通じて、改めて東大教授5人から意見を徴することとし、その結果が18年12月21日にたらされた。
報告書には「色盲の遺伝については『メンデルの法則』が確立されている」とあり、邦彦王の子供に色弱がいるので、俔子妃は色盲因子保有者であるから、女王たちの半数が因子保有者となるとし、「而して、良子女王殿下が色盲遺伝子保有者に在らせられると然らざるとは、可能性相半ばす」と結論されていた。
つまり、良子女王が色盲遺伝子保有者でなければ問題ないのだが、その確率は50%であるというのである。そうした中、いよいよこの問題に杉浦重剛が介入するのだが、ここで筆者は、杉浦の英国留学中の研究論文が「独逸の進化学の白眉ヘッケル氏の書」に引用された一件を想起する。
へッケル(1834〜1919年)は、ドイツの生物学者、医者、哲学者であり、ダーウィンの進化論普及に貢献した人物であるから、杉浦が「メンデルの法則」に知悉していないはずがない。しかも事件が公になる20年頃には、杉浦の良子女王への進講は3年目に入っていたのである。
事実、邦彦王から相談も受けていた杉浦は20年12月4日、御学問所に辞表を提出して、以後の行動が皇室に迷惑を及ぼさないよう手配し、御学問所の東郷総裁、浜尾副総裁にも助力を求めた上で、両殿下のご成婚実現に向けて活動を開始した。裕仁殿下への進講は20年10月に終わっていたが、良子女王への残りの進講を修了して、お二人のご成婚を見届けるまでは死なないと決めていたのである。杉浦の論はこうであった。