(前回:昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」⑦:「教育勅語」のご進講(2))

杉浦重剛と宮中某重大事件

本稿の最後に、裕仁殿下へのご進講とは少し離れるが、杉浦の人となりを知る上で欠かせない「宮中某重大事件」(以下、事件)と杉浦の関りに就いて述べる。

事件は良子女王殿下に関係していた。裕仁殿下に遅れること2年、1903年3月6日に久邇宮邦彦王と俔子妃(島津忠義公爵令嬢)の第1王女子として誕生した良子女王は、久邇宮邸に設けた御学問所で18年4月からご成婚までの5年余り、杉浦から「修身」の進講を受けた。

なお、女王殿下の進講御用掛には杉浦(修身)の他、鈴木元美(数学)、児玉錦平(仏語)、依田顕(化学)、小野潤之助(習字)、高取熊夫(絵画)、土取信(体操)、阪正臣(詩歌)、竹田みち(漢字)が任命され、後閑菊野が御学問所主任に当った(「児島本」)。それは、乃木が裕仁殿下に対して採った教育方式をそっくり模したものであった。

事件の嚆矢は、裕仁殿下が16年11月3日に「立太子礼」を終えた後、貞明皇后が始めたお妃探しにあった。良子女王が学習院女学部中等科3年に在学中の17年10月、皇后は中等科の授業を参観し、良子女王のおっとりと気品高い容姿をお目に留めた。

明けて18年1月14日、波多野宮内相から良子女王が裕仁殿下の妃に内定したことを伝達された久邇宮邦彦王は、宮中に参内し天皇皇后両陛下に内約受諾を言上した。婚約は1月19日に報道され、2月4日に良子女王は学習院を退学、4月13日からは杉浦らの進講が始まった。

皇后の参観から半年、婚約発表までは順調に進んだ。が、3カ月半後の18年5月初、元老山縣有朋公爵は赤十字病院前院長平井博士からある報告を受けて仰天した。博士は、学習院の色盲検査で良子女王の兄朝融王が色弱であると判り、将来、色盲遺伝の懸念があるという(「児島本」を参考にしたが、「モズレー本」には、20年に発行の医学雑誌に載った島津家の色盲の記事を平井博士が読み、山縣に知らせたとあり、山縣の陰謀を匂わせている。が、時期も話の筋も児島の記述に信憑性がある)。