サラリーマン時代、決算処理が忙しくて連日ホテルに泊まって仕上げた超多忙時期と比べても遥かに辛かった。多忙ではあったが、無事に決算を仕上げて打ち上げにいった時の充実感はあったし、社員との一体感も楽しかった。

では、結局どの程度の忙しさが適切なのか? 完全に暇では人は虚無感に襲われる。一方で、過労の果てに体を壊してしまうのも問題だ。やはり、ある程度の負荷がありつつも、適度にコントロールできる忙しさが理想的なのではないか。

多忙は充実感を与える

適度な忙しさは人生に充実感を与えてくれる。

仕事が立て込んでくると、とにかく忙しくて物理的に手が足りないので連日朝から夜まで頑張る、みたいな局面がやってくる。それが続くと、「これは人力で対応するのではなく、パターンに落とし込んで仕組み化、自動化をするべきだ」という発想が生まれ、プログラミングやAIなどのイノベーションが起きるきっかけになる。

自分自身、幾度となく多忙がイノベーションのきっかけになってくれたおかげで、ドンドン自動化と効率化が進んでいった。そしてそのイノベーションを成功裏に導いた時の充実感たるや言葉で表現するのが難しいような高揚感がある。おそらく脳内から大量のドーパミンが放出されているのだろう。

こうした経験が続くことで多忙になるほど、未来の幸福を先取りするようなワクワク感を覚える。「早く手が付けられないほど忙しくなってくれ」とすら考える。

そうなれば、未来の自分はきっと効率化するための発想をする。なんとかして効率化するため、AIを駆使してイノベーションを考えて実現させる。これまで、そうした繰り返しで仕事の生産性が高まり、目論見通り成功することの快感に打ち震えてきた。これこそが仕事の醍醐味である。

よく言われる「悪い多忙」というのは、そうした改善行為に権限が与えられず、ひたすら手数を増やすことでしか対応が許されない状況であることが多いだろう。だからすべての多忙が悪いわけではなく、改善の希望なき多忙が悪なのだ。