しかし、嵯峨天皇の子が多すぎ、天皇の子でも臣籍降下させ源氏や平氏としたが、臣下になった後復帰した例もある。とはいえ、多くは出家させられた。

ところが、鎌倉時代に南北朝のもとになる大覚寺統と持明院統の両統迭立となり、さらに、それぞれの統で次男以下がごねたので、世襲宮家を創設して慰撫した。そして、北朝では後光厳天皇系と崇光天皇系が争い、後者を世襲で親王とするというで生まれたのが、現代の旧宮家の先祖である伏見宮家だ。

後光厳系が断絶したので、第102代の後花園天皇はここから出て、伏見宮家はその弟の貞常親王が継承して、そのまま現代に至るまで男系男子の血統が継続している。

戦国時代には、経済的余裕がなく、男子のうち皇嗣だけを結婚させて、残りはしばらく独身の部屋住みにしておいて、不要となれば出家させていた。そして、いざとなれば伏見宮もいたというわけである。

ところが、後陽成天皇の弟の八条宮智仁親王(桂離宮の創始者)は、豊臣家の継承者に予定されていたが、鶴松が生まれたため、秀吉は八条宮家(のちに桂宮家)を創設した。

また、南北朝時代からは天皇の正妻的な妃がいなくなっていたが、後陽成天皇は秀吉の猶子として入内した近衛前子を女御とし、12人もの子をつくらせた。皇位を継承した後水尾天皇以外もそれなりに扱おうということで、近衛家と一条家に養子に出したほか、好仁親王に高松宮家(のちの有栖川宮家)を創設させた。

このうち桂宮家と有栖川宮家は断絶して、新たに親王が継いで、伏見宮家とともに皇統断絶に備えた控えとして位置付けられた。現実には有栖川宮家からつなぎのような形だが、後西天皇が出ている。

また、伏見宮家では貞清親王が宇喜多秀家の娘を妃とし、娘は4代将軍家綱と紀伊藩主光貞の正室となり、8代将軍吉宗の正室も出し、幕府との関係を強化した。そのおかげで、いったん桃園天皇の親王が伏見宮を継いだが、、政治力で本来の伏見宮の血統に取り戻した。