歴史都市としても大阪は、東京や京都に負けない。大阪にはなんども都がおかれたが、最初は四世紀の応神天皇や仁徳天皇のときなので京都より先だし、大阪城とその城下町は、全国の県庁所在地のモデルとなり、江戸も豊臣秀吉が大阪に似た地形だとして徳川家康に命じて建設させた町だ。

明日、4月3日発売の『古地図と古写真で楽しむ 大阪歴史さんぽ』(TJ MOOK)というムック本で強調したかったのは、そのことを正確に知って、大阪の人に自信をもって欲しいということだ。

「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」というのは、百済からやってきた中国人で、漢字を伝えたといわれている王仁博士の歌とされ、古代から手習いの最初にならう歌とされていた。

難波は浪速とも書く。「浪速(なみはや)」から転訛したと「日本書紀」でもされている由緒正しい地名である。

縄文時代には、高槻のあたりまで海が入り込み、今の大阪城のあたりを先端とする標高20メートル余りの上町台地が南から続いて三角形の半島を成し、その東の河内地方には浅い河内湾が広がっていた。

4世紀の応神天皇は東淀川区の東部に難波大隅宮を営んだとされ、大隅神社が故地にある(大阪城付近説もあり)。

ついで、その子の仁徳天皇は、高津宮を営んだ。民の家から竈の煙が上らないことを嘆いて、3年のあいだ税の取り立てをやめたという逸話はこの宮でのことである。

高津宮の故地には、その後、孝徳天皇と聖武天皇も宮を置いた。現在、大極殿の跡地などが遺跡公園になっているのは、聖武天皇のときの後期難波京のもので、内部の一部が大阪歴史博物館に再現されている。

難波京では南の住吉大社のあたりから四天王寺や大坂冬の陣のときにつくられた真田丸のあたりから上町台地の稜線が大阪城に向かって伸び、岬の突端のようなところに宮が設けられた。それ以前に聖徳太子が、上町台地の南の方に四天王寺を創建した。

そして、このあたりが難波津として発展し、大和国(奈良県)にとって外港のような存在になった。大和川はそれほど大きな川でないので、大陸からやっていた大きな船からはここで降りざるを得なかったからである。